どの宗派のお葬式に出ても思うことだけれど、遺体を火葬場に見送ってから控室に戻り、そこでお骨を拾いに行くまでの間にもたれる昼食の時間は不思議な力に満たされている。泣きはらしていた遺族もその時間、遺体が焼かれているという現実を忘れ、あるいは忘れていないにしても現実的な痛ましさから解放され、遠くから来た参列者と旧交を温めることに専心する。あちこちで献杯だのなんだの言いながら盃が交わされ、食欲の差こそあれ、食事に舌鼓が打たれる。笑い声が聞こえ、子どもが走りまわり、他の死者を含めた思い出話に花が咲く。この時間にほとんどの参列者の上に降りてくる意外なほどの解放感は、式の中で最も痛切であるはずの時間帯に、厳粛な式典の後の開放的な交友の営みを重ねてくるという、実に巧妙に考え出された式次第によってもたらされるものだが、もしそういう言い方が不謹慎なら、生ける者と死せる者との霊の媒介について積み上げられてきた人類の叡智が生んだ仕来りと言い直せるかもしれない。会食の席のにぎわいは、自分が去った後、自分のいない世界を生きなければならない残された者たちに、おばあちゃんがかけてくれた魔法の華やぎのような気がしたものだった。埋立地の突端の葬儀場は、遠く淡い航跡やたなびく飛行機雲をのぞむ絶景の地にあった。素晴らしい場所から旅立っておばあちゃんは幸せだと思った。