深夜の十二時過ぎ、静かな車庫から単車を引き出して家の前の坂をゆっくり走りだした。毎年この時期には、真夜中に思いついたように単車を走らせたくなる日が訪れる。そんな時に僕の中に懐かしく浮かび上がってくるのは、満天下に広がる星の光ではなく決まって光に溢れた都市の光景である。本村ICから保土谷バスパスに乗り、横浜町田ICで東名高速に乗り換えて東京方面の車線を進む。真夏でも長袖長ズボンの格好をしているが、ライディング用のジャケットを羽織っていないので、時速が100kmを超えるとシャツがバタついて体を叩き、痛みでそれ以上速度を上げられない。追い越し車線を物凄いスピードで追い越していく車両は、この時間帯では圧倒的に帰路を急ぐタクシーが多いようだ。用賀ICから首都高に乗ると流れがやや滞って車間距離が詰まり、各車の進路変更が途端に忙しくなる。スピードが鈍ったせいで視野が放射状に広がり、左右におなじみの玉川通り沿いの雑居ビルの数々見えてくる。東京の平野に無数に広がっているこの雑居ビルの群れはいつ見ても、高さや道路からの距離、表面の素材、デザイン、竣工時期のすべての属性がこれ以上ないほどバラバラで、各々の屋上に立てられた看板の種類も高級車から消費者金融まであり統一性が全くない。経費節約のためにその看板の明かりさえ消されたビル街の中を進んでいると、この侘しい都会の何が僕を懐かしくさせるのか分らなくなってきてしまう。渋谷の谷を通り過ぎる時に、『富嶽百景』にあったこのような話を思い出した。
「たとへば私が、印度(インド)かどこかの国から、突然、鷲(わし)にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。ニツポンのフジヤマを、あらかじめ憧(あこが)れてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうな俗な宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけ訴へ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。」
渋谷だって六本木だってその意味でははなはだ心細い街である。そしてそれは悲しいかなこの国では古都のお寺にだって当てはまる。六本木ヒルズを帝都の象徴のよう据えた写真を撮るための写真家の苦労は、上代の趣のままに薬師寺を写さなければならない写真家の苦労と同じだろう。
東京への憧れのような気持ちは僕の中でもうほとんど凋んでいる。それは、取り立ての免許で車の運転の仕方も分からず、実家の車を借りてとりあえず物凄いスピードで246を渋谷まで走った夏頃に芽生え始め、大学院に通うために東京に出てきて酷い半年間を過ごし、神奈川に戻ってきた頃から苦汁の残滓として長い間僕の中に残ることになった。それがたぶん東京でなく京都の大学を選んだ理由にも関係しているのだということが、今となっては朧げに理解できる。僕は別の京都のほうが東京より良いから京都へ行ったわけではなかった。どこか遠くへ行けば逃げ切れるのではないかと思ったから西へ向かっただけだった。その黒い影に魅入られるまでの自分なら、絶対に東京へ行ったはずだという思いが、東京への屈折した気持ちの始まりだった。4年たって東京へ向かったときも僕は逃げたのだった。妻と離れてまで、僕はそれから逃げたかった。だからそれは本当は東京への憧れなどとは全然違っていた。東京の街の名前を得意げに口にする友達の話も僕は全然興味がなかった。結局どの逃走も、引越しの翌日にはその影に追いつかれて失敗した。京都でも東京でも本当はどうでも良かったのだ。二十歳の前後で体験した挫折の記憶が僕の土地への印象を決めているに過ぎない。そしてその意味ではどちらも僕にとっては苦々しい場所でしかない。京都では三年間妻と一緒に暮らした。東京では妻と暮らしたことがない。東京で妻と楽しく暮らすことで、過去の挫折を雪ごうという情念が、僕のこの薄汚い都会への「憧れ」の実質だった。引越しのとき、候補地として東京の街を考えたとき、具体的になに一つこの都会の美質を語れない自分に気づいた。溜まり屈折した光は、10年の間にその輝きさえ失っていた。それは東京に住む人々の顔がどんどん幸福に見えなくなっていく過程と同じだった。
谷町Jctを右に折れ、浜崎橋Jctをさらに右へ折れる。その先の芝浦Jctで「横浜公園」と「羽田」方面へ道が別れていた。僕が帰る方面は横浜だが、湾岸線を羽田を通って帰るという頭があり、とっさの判断で左の「羽田」の道を選んだ。高架上で別れた道は海に突き出して旋回を始め、間もなく左に台場のビルの光で見え始めた。道はさらに海上を進み、巨大な吊橋へと上っていく。風が強くなり、開いたままのバイザーから顔に当たって呼吸が苦しくなった。旋回に合わせて車体を傾けるたびに、海沿いの高層マンションの光が右へ左へと大きく角度を変えた。つり橋の中ほどで、後ろから撃たれるようなたけけましい爆音が響き、間もなくマフラーを改造したレーサー・レプリカのバイクが150kmを優に超えるスピードで右側の車線を走り抜けていった。この夜、家を出てから初めて僕の心は高鳴った。更にスピードを上げて見えなくなっていくテールランプを追いながら時間が止まるような感覚で息をのんだ。この街が人々を儚い幻影で欺いてきただけでないこと、収益力や生産効率の名のもとに人々から搾りとってきただけでないこと、それ以外にこの街が人々に見せてきたもの、与えてきたものがあるということを、レーサー・レプリカの軌跡は示していた。それは風を切るスピードであり、ビルの谷間を縫い海に架かるハイウェイであり、夜も絶えない光だった。首都高で二輪の二人乗りが禁止されていることを僕は恨んだ。妻といつかこの場所を走り抜けたいと思った。車ではなく、バイクで風を浴びながら、スピードを上げ、互いに言葉を交わしあうこともできないまま叫びあっていたい。