今日妻が入院していった。このままあと半日強、何も例外的な事態が起こらなければ明日の午後には新しい命が娑婆へ出てくることになる。こんな時でも妻は僕の二三日分の食糧を用意していってくれた。一食分ずつラップに包んだトマトとキウイ、豚汁と大量の肉じゃが。それだけでなく、気を揉むばかりで直接的に何も手助けができない僕の気を紛らわせるために、入院中に僕が行うべき作業のリストを書き残してくれていた。子供用品の注文、銀行やカードの住所変更、プロバイダーの解約手続き、生ゴミ、粗大ゴミ、古紙を出す日程、レンタルビデオの返却、妊婦検診の補助金の受取り、家族が泊まりにきた時に使用する寝具やタオルの在処。こうやって気をまわしているほうが楽なのだと彼女は言ったが、これは謙遜であると同時に、相当程度彼女の心境に忠実な感想でもあるのだろう。恐れや迷いが迫って自我が追い詰められそうになる時ほど、彼女は周囲の善意や心配に対して注意を投げかけようとする。意識を外へ張り出すことによって、さもなくば内へ内へと落ち込んで行こうとする自意識への荷重を防ぎ、自我の自由を保とうとする。解決不可能な自我の問題にかかずらうよりは、実行可能な小さなことの積み重ねを選ぶ。ちょっとした体調不良ですぐに自我の奈落を覗いてしまう僕とはまったく対照的な生き方で、それだけに、日曜日、ソファーに並んで『ガキの使い』を見ていたとき、彼女がふと「二人の生活はもう終わってまうんよな」と呟いた時の横顔は僕にとって忘れられないものになった。もちろん、この言い草は僕のほうではすでに何度か話題にしていた、というより毎日のように騒ぎ立てていたテーマで、その度に彼女は「三人もきっと楽しいで〜♪」と笑いながら、中の子にも同意を求めるようにお腹をポンポンと叩いていたのだった。妻の健康への不安、子供の人生への不安、そして蜜月が終わることへのあまりにも利己的な不安。これらが忙しなく脳内を駆け巡るなかで、ましてや長い明日に向けて、早く寝なくてはと焦る浮ついた心持ちのまま今夜この問いへの答えが即席で見つけられるとは思わない。何しろ明日起こるであろうことは、人為的な対処の枠を超えた、端から人知を超えた事柄なのだ。今日は床に就く前に、当面の立脚点だけを確認するだけのこととしておく。それは僕らが作った僕らのものではないということ。それは人知を超えたある者から与えられた、そのある者のものなのだということ。すべての人々に対してそれは与えられていて、それは生命の形をとるとも限らず、形のない夢や希望や思いやりのようなものであるかもしれず、でもとにかくそれはすべての人に与えられていて、人はそのことをその者に対して負っているのだということ。だから人はそれを育てなければならず、それをある者に対して返すために、必死に育てなければならず、それぞれが育った時、ある者はそのすべての夢を調和せしめてくれるだろうということ。