仕事帰りの妻と待ち合わせて、以前から誘ってもらっていた妻の友人宅へのお泊りへ出かけた。映画やテレビの録音技師をやっている友人Tさんの旦那さんは、当日は地方への長期ロケの期間と重なっていて、すでに顔見知りのTさんだけが僕らを迎えてくれるという安楽な予定だったのだが、当日になって急遽仕事が片付いたらしく夕方から家に待機しているとのこと。広大な平地に大雑把に線引きされて区画された東京郊外の住宅地にその家はあって、緊張の初対面の後、旦那さんに案内されて中に入ると、なるほど妻が以前から称賛していた通りの、小ざっぱりとした品の良い室内の空間が現れた。階上からは井上陽水が聞こえている。
音響の専門家だけあって、さすがにオーディオのセットにも気合が入っている。言ってしまえば素材はよく聴くJ-POPなのだが、音の響きが柔らかく、表面が緻密で耳に触れる感触がとても心地よい。その音の塊が周囲の壁に弾かれることなく、沁み込むように広がっていく。妻とTさんが鍋料理を作りながら夕食の準備をしている間、僕はこのオーディオの話をとっかかりに、映画における録音技師の役割等について気の向くままに質問させてもらっていた。これまで映画に使われる音声について関心や認識が向くことがあったにしても、台詞、物の落下、ドアの開閉等の自然音、挿入曲等のサウンドトラックなどに限られていた人間にとって、例えば映画における音声トラックが、ホームビデオにおけるような単なる映像の付属物ではなくて、撮影後の段階で映像とは独自に(もちろん一貫性は保ちながら)編集されるものだ、ということ自体が新鮮な事実だった。友人の技師はある映画で、別れた夫との再会を孫たちに促されながらも、過去のしがらみから素直に踏み切れない老婆の葛藤のシーンに、祭囃子の音を重ねたそうだ。映画が、登場人物たちの情動とそれらが織りなす出来事の帰結を画面の中に矛盾なく編成するための小宇宙(コスモス)であるという観点に立てば、そこに盛られる映像や音声は、コスモス全体に意味や秩序を与えるための構成要素に過ぎないということになるのだろう。この限りにおいて、落下音は、コスモスの中で≪なにものかの落下≫という事象が発生したことを、信号的に伝えているに過ぎない。祭囃子は、葛藤のさなかにある老婆の脳裏をかすめた回想的記憶ということになるだろう。ところが映画が、そういったコスモスに渦巻く情動を、観客に共感させるための装置だと考えたらどうなるか。落下音には、ものの落下を信号的に伝えるという役割を超えて、落下が登場人物にもたらした衝撃を観客にも体験させるという役割が求められてくるだろう。そうなれば当然、撮影時に録音された自然音ではもの足りず、そこに編集段階で擬音を付け足していくというケースが出てくる。祭囃子は、単に老婆の脳裏を暗示させるだけではなく、過去のしがらみとの葛藤を観客の中に誘発させるための効果音としての役割も負っていくことになる。音声に対して、コスモスの調和や整合性を司る構成要素として役割を期待しながら、なおかつ観客を誘導するための効果的機能を求めていくためには、美的センスだけでなく、自分や観客を含めた人々の日常感覚がいかに成り立っているかへの研究が不可欠となるだろう。登場人物と同じ体験をしたことのない観客に、登場人物と似た情動を喚起するには、どのような音を使えばいいのか。録音技師は、ロケ地へ早めに乗り込んで、町角に立ち、その町の住人がいつも聞いているであろう音のさざめきにじっと耳を傾けることもあるのだという。その印象はスタジオに持ち帰られ、観客への効果を想像しながら行われる編集において重要なヒントになるのかもしれない。こんな話を聞いてから、彼の最新作のDVDのさわりの部分を自宅シアターで見させてもらったのだが、これといって騒がしい演出があるわけでもない静かな映画の裏に流れる、これまで聞き流していた背景音の豊饒さに圧倒される思いだった。鍋料理が出来上がって夕食の時間が来たので、上映会はここで終ってしまったが(彼は少々残念そうだった。また次回伺った時に解説付きで見てみたい)、普段あまり聞く機会のない世界の刺激に富んだ話が聞けて面白かった。
食べ終わってからは、テレビ付きのお風呂に入ったり、とりとめもない話などをしてくつろぐ。Tさんは、普段は甘えられたり、話の聞き役に回ることの多い妻が、甘える側に回ることを許してくれる数少ない友人の一人だ。三人で話していても、年齢では説明できない不思議な懐の深さを感じる。夜2時頃まで話してから、僕らのために用意してくれた簡易ベッドのある3階の部屋で寝る。部屋の窓に、彼女が会社を辞めるときにプレゼントした写真集("TOKYO BAY")が飾ってあった。

花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ / 杉田久女