あの夏、いちばん静かな海。 [VHS]

あの夏、いちばん静かな海。 [VHS]

いつも行くレンタル屋にはビデオ版しか置いてなかったのだが、この前見たらDVD版が入っていた。高2の時、封切り直後に友達に連れられて川崎の映画館で観た時の感触がなかなか良かった記憶もあって、前から見たい見たいと思っていたのでパッケージ持って妻のところに行ったら、ストーリーをさっと読んで難色を示される。ただそんな彼女のおすすめは『夜逃げ屋本舗』で、それはさすがにないやろうってことで、押し気味に決定。
結果号泣。ウオーーーーーンッ!真木蔵人がその後暴行事件で逮捕、とか必死に思い出してもダメだった。妻もオレの泣き崩れっぷりに若干引き気味ながら、涙目で「だからこうなることは分かってたやん」と。記憶の中ではではもっと『キッズ・リターン』的な爽やかな印象で、そういう感じを期待してたんだけど…。あのラストは反則だと思う。映画やドラマで泣く趣味もないので、無理やり搾り取られたようなセクハラ感が否めない。
ただそういう趣味の問題を離れて作品として見た場合、やっぱりスゴイ映画なのかなとも思う。耳の聞こえない若い男がサーフィンに挑戦する。男の彼女が砂浜からそれを見守る。耳の聞こえない二人の間には会話はない。映画では二人の手話のシーンさえも描かれない。波の音、地元のサーファーたちの軽口、競技開始のアナウンス、通り過ぎる客船の汽笛。それらはサーファーたちには聴こえているけれども、二人には聴こえていない。その代わり二人はいつも一緒にいていつも同じもの見ている。海、波、太陽、サーフボード、トロフィー。二人は同じものを見ることによって互いにつながっている。だから、これらのものは逆にサーファーたちには見えていない。監督はこのことを異常なリリシズムを湛えたカメラワークによって示そうとした。白い軽トラックとただの海沿いの市道。これらから放たれた光と線はまるでカンディンスキーの絵のように網膜に滲出する。曇天の相模湾がこの映画ではセントアンドリューズの海岸のようだ。二人の他に、一体誰がこのように見ているというのか。
愛する人間の世界からの遊離、異なる人間同士のコミュニケーションの不通というテーマがここでは、行為と言葉の対立の劇としてではなく、音と映像という並行的な属性に移しかえられている。そのどちらも聞き、見ることができる観客は感情移入を通してではなく、それを映画的自然として受け止める。この構成の鮮やかさが、この映画に聾唖の問題を超えた普遍性を与えているし、作品のもつ異常な透明感を支えているとも言えるだろう。やっぱりさすがだなと。
6月2日、松本人志の前には、これだけの男が立ちふさがっているわけだ。暴君のように、息子の恋人を寝取るフョードル・カラマーゾフのように。もちろん、うちらはこっちのほうに行きます。ファンとして、白旗を覚悟で。