Tokyo Air Raid

バイエルンドレスデン・東京の大空襲の記憶は、ヒロシマナガサキアウシュビッツといういわば絶対零度の悲劇が象徴化された結果として、大戦の直後から相対化・風化の途をたどった。一説によると、朝日新聞東京大空襲に言及したのは1968年までにたったの4回。広島への言及の1/100に過ぎなかったという。アメリカ人にはいまだにこれらについて全く知らない人も多い。そして記憶がよみがえってくることがあったにしても、「日本も中国でひどいことをした」という合理化によって、それはそのたびに打ち消されてきたのだった。だが連合国側でも、最初から無差別爆撃が正当化されていた訳ではなかった。「軍事施設への正確な爆撃」を主張して次第に勢力を無くしていった軍内の一派は、東京大空襲を「歴史の中で、非戦闘員に対する史上最も無慈悲で野蛮な殺戮」と非難していた。彼らを退けて司令官に就任し、上記の「死ぬまで焦がし、煮て、焼き尽くす」空襲の全てを指揮したのがカーティス・ルメイ。彼は表向き「家内業を営んでいた日本の民家は全て軍事施設だった」といって無差別爆撃を正当化したが、後にベトナム戦争下でこんなことを語っている人だ。「ベトナム人には、分を知れ、と言ってやれ。さもなくば我々の爆弾で石器時代に帰らせてやる。」
こんな嫌な話をここに書く気になったのは、別に「連合国にも非はあったんじゃないか!」、「日本だけが悪いんじゃなかったんだ。自虐だ自虐だ。」などと思いたいためでは全然ない。被害者は加害者に、また被害者は加害者に立場を変えることによって、またそれだけじゃなく、身内の中、敵の中にいるさまざまな派閥の立場に身を置いてみることによって、見えてくることもあるのではないか、と思っただけの話である。