小学生への読み聞かせの勉強会で、先輩ママたちが神谷美恵子について話しているとき、上沼恵美子の顔が浮かんできて仕方がなかったという妻だけど、雑念を克服する中でこんな話を耳にとめてきた。
神谷美恵子が翻訳したある外国詩人の詩のイメージによると、子どもが矢だとすれば、親は弓なのだそうである。そう聞くと、弓を引き絞るのも親の仕事と思いそうだがそうではなくて、それは《大いなる力》がやるのだそうだ。それがどんな力であるかはめいめいが思い浮かべればよくて(人が望まない雨を降らせ、人が期待しない晴れ間をもたらす摂理に当てはまる名詞を。つまり一先ずはどうでも良くて)、ポイントは親が弓という物として、ただ《在る》に過ぎないということだ。
人々が詩句の形に表現されることを望む親子のイメージの枝葉を切りつめると、このイメージは、親は導くことも、道を指さすこともできないと教える。できるのは逆方向に引かれる力を受けとめること。矢の底を当てられ、引きちぎられないように持ち応えること、弦を引っ掻く傷の痛みに矢の中の強張りを感じること…。
親のみならず、一体何人の弓に番われてギザギザとこの街路を転がってきたのか。